(写真:日本郵船歴史博物館所蔵)
ときどきでいいのです
どうかわたしたちのことを思いだしてください
あなたは、海へ行くことがありますか?
海へ行って海の水にさわりますか
その水は、私たちの眠るあの悪石島の海へつながっているのです
真っ白い雪や大きな汽車
そして、真っ白いご飯にあこがれ
まるで修学旅行にでも行くように船に乗ったわたしたちは
アメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈められました
炎と水
たくさんの子ども達のそして大人達の悲鳴
想像できますか?
なぜ
わたしたちは、そんな目にあわなければならなかったのでしょう
わたしたちは、生きたかった
おいしいものを食べたり
思いきり遊んだり
大人になって世の中で自分の力を試したり
すてきな相手にめぐり会ったり
わたしたちは、生きたかった
なぜそれが許されなかったのでしょう
なぜ
ああ、でも海の底にいるとよく聞こえるのです
今も世界中のあちこちで子ども達が悲鳴を上げています。
なぜ なぜ なぜ
             (対馬丸記念館ガイドブックより)


対馬丸事件

対馬丸事件前後5年間の出来事

  •  1939年:第二次世界大戦が始まった。

  •  1940年:日中戦争を続けていた。

  •  1941年:真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争が始まった。対馬丸が日本陸軍に徴用された。

  •  1942年:太平洋戦争を続けていた。

  •  1943年:対馬丸がアメリカの潜水艦から攻撃を受けたが、魚雷は不発に終わる。

  •  1944年:対馬丸がアメリカの潜水艦から攻撃を受け、沈没した。これがいわゆる対馬丸事件である。

  •  1945年:第二次世界大戦が終わった。

  •  1946年:連合国の日本統治が始まった。

  •  1947年:日本国憲法が施行された。

  •  1948年:日本の経済復興が始まった。

  •  1949年:連合国による占領から解放さた。


 以上の出来事は、対馬丸事件の前後の歴史的背景を理解する上で重要です。この期間は、戦争と平和、破壊と再建の時期であり、日本の歴史において重要な転換点となりました。対馬丸事件は、この激動の時代の中で起こった悲劇的な出来事であり、戦争の恐ろしさと人間の命の尊さを我々に思い起こさせます。



対馬丸事件とは

 対馬丸事件は、1944年8月に起こった悲劇的な出来事です。対馬丸は日本郵船のT型貨物船で、第二次世界大戦中に日本陸軍に徴用されました。1944年8月21日、対馬丸は沖縄の那覇港から長崎へ向かうために出港しました。乗船していたのは、国民学校の生徒、教師、付添人ら約1,700名でした。しかし、出港から2日後の8月22日、対馬丸は南西諸島悪石島の北西12キロメートル付近を航行中に、アメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け、沈没しました。この事件により、多くの犠牲者が出ました。
 対馬丸事件は、戦時中の疎開船が攻撃を受けたことによる大きな犠牲を伴う悲劇であり、戦争の恐ろしさを改めて認識させる出来事となりました。
 (1)対馬丸 - Wikipedia
 (2)日本郵船歴史博物館|航跡
 (3)対馬丸事件について | 対馬丸記念館公式サイト
 (4)「対馬丸事件」を覚えていますか? - 東洋経済オンライン
 (5)ja.wikipedia.org


前田紀太郎氏手記の解説

 この手記は、対馬丸を護衛していた砲艦宇治の乗組員の主計長で あった前田紀太郎氏が、沈没した対馬丸の疎開学童等の状況を確認しながら 救助しなかったことの無惨の償いから、対馬丸船長の家族に対し、手記を後年に残し、手渡されたものの写しです。
 この度、「太平洋戦時下の下鳥羽の記憶」の発行にあたり、対馬丸についてもろもろの情報を入手することができましたが、西沢船長の孫にあたる神戸市在住の西沢亮さんとの情報交換のなか、原本のコピーを送っていただい たものです。
 内容については、護衛艦の宇治と蓮による船団の動向と対馬丸沈没時の様子が克明に書かれています。そして、無傷の他の輸送船二隻の護衛と更なる被害を避けるため、やむなく対馬丸を見捨てた(このようには書かれていないが)ことが書かれています。しかしながら、学童たちの助けを求める阿鼻 叫喚の記憶が離れず仏心からこの手記を残したことがうかがえます。
 また、海軍の公的記録によると、護衛艦蓮には対潜水艦攻撃を行ったこととなっていますが、前田手記によりますと、迎撃爆弾を投下すると、海に投げ出された生存者を巻き添えにすることから、なにもしないで兎に角現場か ら遠ざかることを考えた旨が書かれていました。このことから判断すると、 敵潜水艦対抗爆撃を行ったという公的記録は、護衛艦隊からの偽報告だった と考えられますが如何でしょうか。
 そもそも、軍・国家での情報統制のなか、事実を隠蔽し変えることなど容易にできた時代であったことを考えると納得がいくように思えます。学童780名を含め1,500名近い犠牲者が出た事件であり、今なお870mの海底に対馬丸船体と沈んでいる事実の私的記録であります。


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