御成敗式目
御成敗式目までの法律の変遷
- 大化42年(604年)聖徳太子が十七条の憲法を定める。(飛鳥時代)
- 朱鳥4年(689年)に浄御原令(きよみのはらりょう)ができる。(飛鳥時代)
- 大宝元年(701年)に大宝律令(たいほうりつりょう)ができる。(飛鳥時代)
- 養老2年(718年)に養老律令(ようろうりつりょう)ができる。(奈良時代)
- 弘仁11年(820年)に弘仁格式(こうにんきゃくしき)ができる。(平安時代)
- 貞観11年(869年)に貞観格式(じょうがんきゃくしき)ができる。(平安時代)
- 延長5年(927年)に延喜格式(えんぎきゃくしき)ができる。(平安時代)
- 貞永元年(1232年)に御成敗式目(ごせいばいしきもく)ができる。(鎌倉時代)
御成敗式目の要旨
- それまで公家の法律だった律令を、武士の習慣や実態にあわせて作ったものが「御成敗式目」です。
- 元仁2年(1224年)に執権となった北条泰時の発意により、連署(れんしょ)北条時房や評定衆(ひょうじょうしゅう)の三善康連らを中心に協議整理した。それを法橋円全が執筆した。
- 貞永元年(1232年)8月10日に施行された。はじめは35条までが作られ、最終的には51箇条からなります。
- 御成敗式目は、諸国の守護所、地頭に配布され徹底がきされた。六波羅探題にも配布されて次第に全国的に行われるようになった。以降、室町時代・戦国時代の法律にも受け継がれ、江戸時代には寺子屋の教科書として、長く武士の法律の手本とされた。
- 承久の乱後、幕府が京都方公家の所領三千余ヶ所を没収し、そこに新補地頭が置かれたため所領をめぐる紛争が激増し、その処理のため御成敗式目に簡単明瞭に整理した。そこには、将軍によって与えられた土地は保障することと、20年間実効支配した土地は誰からも奪われないことが定められている。
- いったん相続した土地でも親が返せと言えば返せる「悔返し」(くいかえし)は親優先の制度となっている。また、女性に関わる条文が多くあり、女性にも大きく権利が認められている。
- 御家人の父子が朝廷側、幕府側と別れて戦った場合の朝廷側についたものの処分の扱いが記されている。
- 御家人、年少者や低位の僧侶が勝手に朝廷から官位を受けることを禁止している。これは官位によって秩序が乱されることを防ぐためです。
- 殺害や刃傷などの犯罪について、当人の罪科を定めるとともに関係のない親族の処罰を問わないとしている。
- 争いの元である悪口の禁止、うらみを買ってしまう他人に暴力をふるうことをあえて条文にしている。
- 御家人同士の土地や財産に関する民事裁判は「問注所」で行われ、殺人や傷害などの刑事裁判は「侍所」で行われた。また、鎌倉市中の民事裁判は「政所」で、近畿地方や中国・四国・九州での裁判は京都の「六波羅探題」で行われたが、裁決はすべて鎌倉で行われた。
- 裁判は、有力者の口ぞえやニセの証拠を排除し、一族に関係者のいる裁判官は退席させて行われた。不公平な裁判は問注所そのものが信頼を失ってしまうので禁止された。
御成敗式目の内容(クリックすると条文にジャンプ)